ウエイワードとは何かを、もう一度確認しておきたい
Season2第6回では、ウエイワードとは何かについて、シータヒーリングの基本に沿って整理しました。
ウエイワードは、思考パターンのような認知の癖とは別のものとして扱われ、シータヒーリングの中では、創造主につながる窓を通り損ねたスピリットとして説明されています。
だからこそ、このテーマは曖昧にせず、まずは基本の位置づけを丁寧に押さえることが大切でした。
そのうえで今回見ていきたいのは、
では、そのウエイワードを私たちはどう捉えたらよいのか
ということです。
霊的な存在として説明される以上、怖さが先に立ちやすいのは自然なことかもしれません。
けれど私は、このテーマにおいて本当に大切なのは、必要以上に恐れを大きくすることではなく、どこにつながってそれを見るのかだと感じています。
創造主の光につながっているのか。
第7層のジャッジのない安心安全な場に通じているのか。
その土台があるなら、ウエイワードというテーマも、怖れの中で膨らませるのではなく、本質から理解することができるはずです。
なぜウエイワードを必要以上に怖れすぎなくてよいのか
ウエイワードという言葉を初めて聞くと、怖いもののように感じる方もいるかもしれません。
見えないものとして語られるからこそ、わからなさがそのまま怖さにつながりやすいこともあると思います。
でも私は、ここで大事なのは、怖がることそのものではないと思っています。
シータヒーリングでは、ウエイワードを「戦って追い払うもの」として扱うのではなく、創造主のもとへ返していくものとして見ています。
これは、自分の力で何とかするということではありません。
怒りや恐れで押し返すことでもありません。
そうではなく、創造主の光につながりながら、本来あるべき場へ戻っていくことをゆだねる、という感覚に近いものです。
だからこそ、ウエイワードは「怖いもの」として理解するより、創造主とのつながりの中で、本来の場へ返していくものとして捉えた方が、シータヒーリングの本質に近いのだと思います。
私はここに、この手法の大切な在り方が表れていると感じています。
何かを恐れたり、戦ったり、排除したりするのではなく、まず創造主の光につながること。
そのジャッジのない場の中で見ていくこと。
そこに、シータヒーリングらしい深さがあるのだと思います。
恐れは人を巻き込みやすくする
必要以上に怖れすぎると、人は物事を落ち着いて見にくくなります。
まだよくわかっていないものまで大きく感じたり、必要以上に重たく意味づけたりしやすくなります。
それはウエイワードに限ったことではありません。
私たちは何かを恐れるとき、その対象そのものよりも、恐れによってふくらんだイメージに巻き込まれてしまうことがあります。
だからこそ、このテーマでも、まず大切なのは恐れを強くすることではなく、創造主とのつながりを思い出すことなのだと思います。
怖れすぎると、本質が見えにくくなる
必要以上に怖れすぎると、ウエイワードというテーマはすぐに
「危ないもの」
「悪いもの」
「排除しなければならないもの」
という方向へ傾きやすくなります。
でも、ここには少し注意が必要です。
もちろん、軽く扱ってよいということではありません。
シータヒーリングの中でも、きちんとした理解と注意深さが大切にされています。
けれど、それは恐怖を育てるためではないはずです。
本質はむしろ、恐れの中で扱わないことにあるように思います。
なぜなら、恐れが前に出ると、人はすぐに「戦う」「押し返す」「自分が何とかしなければ」という方向に行きやすくなるからです。
そうなると、創造主の光の中で見ていくというシータヒーリングの土台が見えにくくなってしまいます。
悪者化しすぎることの危うさ
何かを強く悪者にするとき、そこにはたいていジャッジが生まれます。
良い悪い、正しい間違っている、排除すべきものと守るべきもの。
そうした分け方が強くなるほど、第7層のジャッジのない場からは少し離れやすくなります。
私はそこに、シータヒーリングの大事な分かれ道があるように感じます。
テーマが重く感じられるものであればあるほど、ますます第7層とのつながりが大切になる。
恐れの中で見るのではなく、創造主の光の中で見る。
その順番を忘れないことが、本質から離れないために必要なのだと思います。
大切なのは、創造主の光に返すという視点
私がシータヒーリングの中でとても深いと感じているのは、ウエイワードに対しても、本質が「戦うこと」ではなく、創造主の光に返すことに置かれているところです。
これは、とても象徴的です。
もし本質が対抗や制圧にあるのなら、必要なのは強さや支配の力です。
でもシータヒーリングで大切にされているのは、そうではありません。
創造主につながり、その光の中で本来の場へ帰していくことです。
ここには、対立ではなく秩序があります。
恐れではなく、つながりがあります。
排除ではなく、光の中で完了していく流れがあります。
私は、この感覚がとても大切だと思っています。
戦うことではなく、本来の場へ帰すこと
「創造主の光に返す」という表現には、ただ追い出すのとは違う質があります。
それは、自分の側が力で何とかするのではなく、創造主の秩序の中で本来の位置へ戻っていくことを信頼する、ということでもあります。
だからそこには、プラクティショナー自身が抱え込みすぎる感じがありません。
自分が制圧するのでもなく、自分が戦うのでもなく、創造主とのつながりの中でなされることを信頼していく。
この在り方は、ウエイワードに限らず、シータヒーリング全体の深さにも通じています。
第7層の安心安全な場につながっていることが土台になる
第3回で書いたように、私は第7層を
ジャッジのない、安心安全な場
として感じています。
そしてシータヒーリングの醍醐味は、どのテーマであっても、第7層に通じながら見ていけることにあると思っています。
ウエイワードというテーマでも、それは同じです。
むしろ、このテーマのように重くなりやすいものほど、第7層とのつながりがはっきり問われるのかもしれません。
怖さの中で見るのか。
ジャッジの中で扱うのか。
それとも、創造主の光とジャッジのない場につながったままで見るのか。
その違いは、とても大きいと思います。
ジャッジのない場だからこそ扱える
ジャッジのない場にいるとき、人は必要以上に力まなくてすみます。
排除や対抗の緊張から少し離れ、本質的に何が行われているのかを落ち着いて見やすくなります。
安心安全な場というのは、ただ優しい雰囲気ということではありません。
何かを過剰に怖れたり、逆に雑に軽く扱ったりせず、必要なものを必要なだけ見ていける場でもあります。
私はそこに、第7層の深さがあると思っています。
ウエイワードを怖れすぎなくてよい理由も、結局はここに戻ってきます。
創造主の光に通じているなら、必要以上に恐れなくてもよい。
第7層の安心安全な場に立っているなら、恐れよりも秩序の中で理解していける。
私はそう感じています。
軽く扱わず、怖れすぎずに理解するために
ただし、ここで誤解したくないのは、「怖れすぎなくてよい」と「軽く見てよい」は同じではないということです。
必要以上に恐れなくてよい。
でも、雑に扱ってよいわけではない。
ここはとても大切です。
重くしすぎないことと、軽くしすぎないこと。
そのちょうど真ん中にあるのが、創造主の光の中で丁寧に理解する、ということなのだと思います。
私はこのバランスが、シータヒーリングらしさだと感じています。
ウエイワードをどう捉えるかは、そのままシータヒーリングをどう理解しているかにもつながります。
恐れの中で捉えるのか。
戦いや排除で理解するのか。
それとも、創造主の光と第7層の安心安全な場の中で見ていくのか。
私はやはり、最後の理解に、この手法の本質があると思っています。
だから、ウエイワードを怖れすぎなくてよいというのは、単に気を楽にしましょうという話ではありません。
どこにつながってこのテーマを扱うのか。
そこを忘れないでいたい、ということです。
そしてそれは、ウエイワードに限らず、シータヒーリングのあらゆる項目にも通じることなのだと思います。
次回は、マニフェストについて見ていきます。
願いがなぜうまく現実になりにくいのか、そして願いより先に整えておきたいものは何かを、ここまでの流れの上で見つめていこうと思います。
